ヨーロッパへの旅程の移り変わり

ペリー
船
日本からヨーロッパに向かう旅程は、飛行機ができるまでは船である。ペリーのようなインド洋をまわるルートと、勝海舟の咸臨丸のような太平洋をまわる航路の2つがある。例えば、天正遣欧使節(安土桃山時代に、大友、有馬、大村のキリシタン大名が欧州に派遣した使節)と薩摩藩英国留学生(薩英戦争後、欧米を知るために薩摩藩が英国に派遣した使節)はインド洋の航路で、慶長遣欧使節(江戸時代初期、伊達政宗が欧州に派遣した支倉常長らの使節)や岩倉使節団(明治初期、岩倉具視を大使として欧米視察&条約改正に向かった使節)の行きは太平洋の航路であった。
天正遣欧使節
備考
中世、スペインとポルトガルは大航海時代でお互い植民地を得ようと競っていて、衝突もあったのだろうか、スペインは西へ大西洋を渡って、ポルトガルは東へインド洋を渡って進出しようということになった。だからスペインはとても広い太平洋を横断することになり、東アジアへ進出するのが少し遅れた。それでもスペインが獲得した植民地がフィリピンである。ゆえにフィリピンはカトリックの国となっている。なおその後アメリカとフィリピンが戦争になり(米西戦争)、アメリカが勝利、フィリピン・グアム・プエルトリコを獲得した。飛行機初期
そして飛行機ができてくると、アジア大陸の南を回る南回りコースが最初の方とられた。羽田―香港―バンコクーニューデリーーテヘランーテルアビブーローマというのが航路の一例である。だが当時は飛行機があっても、お金のない人は横浜からナホトカ(ウラジオストクは軍港のため閉鎖)に渡り、ナホトカからシベリア鉄道の支線に乗り、途中で本線に合流してモスクワまで行き、そしてヨーロッパに入った。
その後
その後、航空機で北回りコースという航路が新たに開拓された。北極付近を通過するコースで、日本からヨーロッパへの大圏コースになるべく沿った形での航路。当時は冷戦でシベリア上空は飛べないから、アラスカのアンカレジ経由であった。冷戦時代の悲劇として一つ挙げられるのが、アンカレジからソウルへ飛んだ大韓航空機がソ連の領空侵犯をして撃墜されてしまったというのがある。僕の学校の方がその事件で亡くなられたのだ。だから地理の先生はよくこの話をしてくださる。徐々に冷戦の対立が解消していくと、ソ連(ロシア)上空を飛行機が飛べるようになった。今はもちろん、成田からヨーロッパへの直行便がある。
薩摩藩英国留学生は1865/4/17~6/21のおよそ2か月かかってロンドンに着いた。現在は成田~ロンドンまで12~13時間で着くそうだ。いつかもっと縮まる日が来るかもしれない。
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